火の顔/アンティゴネを観劇して

 

 

 

舞台を見て逃げ出したいと思ったのは、はじめてだった。

 

小さな箱の中で、このまま死ぬのかもしれないと思ったのも、はじめてだった。

 

 


川﨑星輝さん 初主演作品「火の顔」そして「アンティゴネ」全15公演完走おめでとうございます。

 

 


演劇に通じているわけでも古典に通じているわけでもないただのいちオタクなので、考察とかはできませんが、

 


私の肌にナマモノの感覚が残っているうちに、感じたことを書き記しておこうと思います。

 

 

 

 

はじめに。

 

 


家族劇という共通項で結ばれつつも、キャラクターもストーリーも全く異なる二作品。


その一方で、家族劇以外の共通項も少しだけ見えた気がします。

 

 


「ガキ」と罵られる、クルトとハイモン


支配や独裁から逃れようとする、オルガとアンティゴネ


 


クルトもテーバイも不健康で、


命も街も燃えて粉々になる。

 

 

 

 


なんて、


そんなことを思いのままに綴っていくと、あまりにも支離滅裂になってしまいそうなので、

 

 


ここからは、いくつか項目に分けて記録しておこうと思います。

 

 

 


◼️「死」


二作品で描かれる「身体の死」と「精神の死」。

 

 


子供の自分が「死」んだと同時に、男性性が「生」まれ、それと同時に饒舌に言葉を発せられるようになるクルト。

 


兄の「死」を弔うアンティゴネ

 

 


自分から「生」を放棄する、クルトとアンティゴネ


意思に反して「生」を失う、両親とクレオン。

 

 

 

 


身体を傷つけるのも、精神を傷つけるのも「暴力」であるように、

 

体がなくなるのも、心がなくなるのも「死」なのだと、

 


そんな風に思いました。

 

 


◼️対立するふたつ


男と女、大人と子供、家族と他人、国家と個人。

 


二作品にはたくさんの対立するふたつが、共通して出てきます。

 


そして、それぞれがお互いを嫌悪し、蔑む。

 

 

 

 


「逃げる」の一つとっても、姉妹と兄妹では異なっていて。

 


男性性を持ちはじめた弟や、女性性を露わにする母から逃げ、性とは切り離された子供のようなバカと付き合うオルガ。


戦争から逃走したポリュネイケス。

 

 

 


自分の性と家族という支配から逃げることをやめたクルト。


逃げることなく、死罪を受け入れたアンティゴネ

 


クルトはオルガを受け入れるし、
アンティゴネはポリュネイケスの逃走を受け入れる。

 

 

 


受け入れたところで、
オルガは最後に逃げちゃうのにね。

 


受け入れられるか、受け入れられないか。


受け入れられなかったときに殺すのか、逃げるのか。

 


それによって未来は全くもって変わるような気がしました。

 

 


◼️他人


二作品は「家族劇」ですが、とても重要な「他人」が出てきます。

 

 


姉の恋人「パウル」という他人
預言者「テイレシアス」という他人
 

 

 


他人が、秩序や家族をかき乱していく。

 

 


穴を塞いで他人を排除する「火の顔」と、
穴を開けて他人を受け入れる「アンティゴネ」。

 

 


そうだ、この流れで穴の話もしよう。

 

 


◼️穴


「火の顔」では具体的な穴の話をしていたけれど、「アンティゴネ」では抽象的な穴の話をしています。

 

 


前者では「穴を塞げ」
後者では「壁に穴を開けろ」

 


共通項が多くある二作品で、珍しく真反対のことが言われているんですよね。

 

 


まあ結局、塞いだ後に爆破して粉々にするクルトと、穴が開いたと思ったら崩壊するテーバイの、結末は同じなんですが。

 


これについてはもっと考えたいところなんですが、どうにもこうにもすっきり解決できませんでした………無念。

 

 


◼️音


恐怖を煽り、不快感を増幅させる音楽。

 


マッチを擦る。
オイル缶の蓋が椅子に当たる。
ビチャビチャと水の中を進む。
ビールのプルタブを開ける。
Jアラート。

 

 


日常で聴いたらなんとも思わない音も、
物語のなかで聞くとすべてが特別に思えました。

 


そして、平和が当たり前だと考えている自分を再認識し、反省するばかりでした。

 

 

 


◼️語りかける言葉


「あいつ(クレオン)はいつもお前たちの中にいる」

 

 

 


客電が上がる、人民法廷。


その瞬間、私たちは傍観者から加担者に変わる。


"私たち"に語りかけるアンティゴネ。 

 

 

 

 


わたしはアンティゴネにはなれないけど、


いつまでも傍観者でもいられない。

 

 

 


目が見えるのに、見ようとしないことの罪は、本当に深い。

 

 


知らない方が良いこともあるけど、
知ろうとしないことは罪なのだと、
そんなふうに思いました。

 

 


私だって、缶ビールを持って、テレビの中のいろんな現実を他人事のように眺めてるんだもんな、いつも。

 

 

 

この二作品が2023年という、前の戦争と次の戦争の間の時代に上演される理由は結局なんなのか。

 

家族と同じくらい、戦争は身近に感じないといけない問題だということなのかなあと、そんなふうに思いながらも、

もっと他の理由もある気がしています。

 

 

また思いついたらこっそり書き加えます、こっそり。

 


とまあここまで、わかっているようなわかっていないような感想をつらつらと述べてきましたが。


正直、まだモヤモヤしている部分はたくさんあります。

 


けれど、それでいいのだと思います、いいよね、クルト?(クルト「どうだっていいよ」)

 


モヤモヤしているうちは、きっと考え続けることができるよね。

 

 

 

 

 


最後に、とっても難しい役に挑んだほしきちゃん。

 


クルトは、ほんっとうに狂気的で、

 

 


手の震えや声の震え、叫び方だけで快感や恐怖を与える存在でした。


マジで狂ってました(褒めてます)

 

 


オルガを見てからガイコツをうっとりと見つめるシーン。


あまりに狂った愛で、怖すぎて見ていられなかったし、

 


大火傷を負ったまま、椅子に座るシーン。


キラキラした目で爆弾を作るクルトの目からは、光も生気も完全になくなっていた。

 

 

 


ママにクリームを塗ってもらうシーン。


男性としての自分を完全に自認した顔は、めちゃくちゃ色気に溢れてました。

 

 

 


小さなシアターだからこそ感じる、生々しく荒々しい感情は、18歳の体から発せられているとは到底思えませんでした。

 

 

 


灯油を撒いて、自分にもかけて、
マッチで火をつける。


全てを諦めた顔をしたクルトは
自暴的で恍惚で。

 


あまりにも美しい最期でした。

 


寂しいとも、消えてほしくないとも、ようやく終わるんだとも、思わなくて。

 

 

 


消えゆく命に美しさを感じるわたしはおかしいのかもしれないけれど、


そのくらい、私の見たクルトは刹那的な人でした。

 

 

 


アンティゴネ」で演じた、ハイモン/亡霊 はまた全然違った役柄で。

 


亡霊、ずーーーーーっと会場を彷徨いてるのに、全然邪魔じゃない。
し、なんなら見失う。

 


ストーリーテラーとしての役割をまっとうしつつも、そこにはちゃんとハイモンもいる。

 

 

 

 


最後にナチス幹部を刺し殺したのは、いったい誰だったんでしょうか。

 

 


好きなセリフも好きなシーンも、話したい場面もまだまだたくさんありますが、


このくらいにしておきます。

 

 

 


過去に出演した二作品「バンクパック」「幻奏のフイルム」とはまた違った物語の中で、とてもとても、とーーーっても成長したね。

 


表情とか体つきとか、目に見える部分だけじゃなくて、心の中とか見えない部分もきっと。

 

 

 


「あれは俺じゃないから!役だから!」


2月のコンサートでそう言っていたけど、本当に舞台の上に「川﨑星輝」は1秒たりともいませんでした。

 


目の前のクルトが恐ろしくて目を逸らしてしまったのも、劇場に行く足がとても重かったのも、ほしきだからこそ感じた気持ちでした。

 


火の顔/アンティゴネと出会う、そして考えるきっかけをくれたこと、すごく感謝しています。

 

 

 


本当に主演お疲れ様でした。
凛々しく、儚く、美しかったです。

 

 

 

 


最後に、


ホシキへ。


体はあんまり鍛えすぎないでね。


ティミより。